大判例

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熊本地方裁判所 昭和33年(わ)6号 判決 1959年4月20日

被告人 石原又次郎

明三八・一一・一五生 元弁護士

籾田利雄

大二・二・一九生 司法書士兼土地家屋調査士

主文

被告人石原又次郎を懲役二年に、同籾田利雄を懲役八月及び罰金四万円に夫々処す。

但し、被告人籾田利雄に対しては、この裁判確定の日から一年間右懲役刑の執行を猶予する。

被告人籾田利雄に於て、右罰金を完納しないときは、金四百円を一日に換算した期間、同被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中、証人諏訪宝寿に支給した分は被告人籾田利雄の負担とし、その余の部分は被告人石原の負担とする。

理由

冒頭事実

(一)  被告人等の略歴

被告人石原又次郎は本籍地に生れ、長じて中央大学法科専門部を卒業し、昭和五年十一月高等試験司法科試験に合格し、昭和六年八月弁護士登録をなし、熊本市に於て弁護士を開業し、爾来本件発生まで弁護士の職にあつた者、被告人籾田利雄は熊本県下益城郡海東村に生れ、昭和五年頃熊本地方裁判所雇となり、昭和八年書記に任官し、昭和十三年満州国新京地方法院の書記に転じ、昭和二十一年帰国し、爾来熊本市に於て司法書士を開業し、昭和二十六年七月頃第一回の土地家屋調査士試験に合格し、同年九月四日土地家屋調査士の登録をなし、その後は土地家屋調査士の業務をも兼ねて現在に及んでいる者である。

(二)  土地台帳又は登録簿上に於ける熊本県球磨郡五木村字上小鶴一、五七二番及びその分筆地の沿革

熊本県球磨郡五木村字上小鶴一、五七二番(以下単に一、五七二番と略称する。)は明治三十年五月土肥亀吉が家督相続により、その所有権を取得した後、明治四十四年十二月六日同人の所有時代に転売され、その後売買若しくは競売等によつて多数の民間人に次次と所有権が移転し、昭和九年一月二十三日、昭和八年十二月十六日の競落許可決定により、志戸本敬作がその所有権登記名義を取得したが、同人の死亡後その遺産相続人志戸本健次郎は昭和十四年十月七日右一、五七二番を前山勇三に売買のため所有権移転登記をした。しかし志戸本健次郎より買い受けた者は前山勇三個人ではなく、山陽木材防腐株式会社(以下単に山陽木材又は会社と略称する。)であつて、一、五七二番は松の生立する土地として、その価額金一万四千円で売買され、爾来会社に於て占有管理して来たもので、納税も会社の経理より支弁されて来た。登記名義が前山勇三になされたのは売買当時同人が会社の九州工場支配人であつたため便宜上なされたものである。

昭和二十三年七月二日熊本県(以下単に県と略称する。)は農林省のため端海野開拓地の一部として一、五七二番の中、その東北部を占める一部分実測面積二十一町八反歩を自作農創設特別措置法第三十条の規定により買収し、山陽木材社員天野勘太郎の立会を求めて、現地の引渡を受け、開拓農民を移植させたが、右同地(以下単に開拓地と略称する。)の分筆及び所有権移転登記手続は未了であつた。買収令書は一、五七二番の所有名義人である前山勇三に対して発せられたが、代金は会社の経理に受け入れられた。昭和二十四年二月前山勇三が死亡し、鍵原福松が山陽木材九州工場支配人となつたが、昭和二十六年に至り、同支配人は従前の如く会社財産を前山個人名義とするような変則的なことは将来に禍根を残すことを慮り、一、五七二番の登記を前山個人名義より会社名義に変えるため、先ず県と折衝し、一、五七二番中開拓地を分筆して貰い、残余の部分を会社の所有名義に変えることにした。そこで県では昭和二十六年十月一日、当時の農地の登記関係の担当者西島市平の指示により、球磨開拓事務所の水野介夫が自作農創設特別措置登記令(昭和二十二年三月十三日勅令第七十九号)第一号に基き、開拓地を一、五七二番の二として、地積をその実測面積通りの二十一町八反となし、母番の一、五七二番の一の地積は一五七二番の公簿面積三十一町三反一畝歩(目減約百町歩)より分筆地の右地積を差引いた計算上の残存面積、九町五反一畝歩(公簿面積)とした。同月二日、会社は一、五七二番より開拓地を分筆した母番の一、五七二番の一を前山勇三の相続人、前山裕代外四名より会社名義に所有権移転登記を了したのであるが、開拓地一五七二番の二については県の事務取扱者の手落により、これを農林省に所有権移転の登記手続をすることを怠つていたため、その所有名義は前山勇三となつたまま残つていた。

(三)  現地山林の沿革と字図の混乱

前記開拓地の西側に隣接し、山陽木材が一、五七二番の一として管理して来た松山の北方に隣り、北八代郡境に亘り、所謂上小鶴国有林の一部で八十六町余に及ぶ檜の造林地がある。

この地は被告人石原に於て一、五七二番の二の所有名義を取得した後、更に右地番を一、五七二番の二及び三の二筆に分筆し、後者を開拓地該当地とし、母番の一、五七二番の二が現地では右檜造林地に該るものとして、これを他に売却し、後日大量の檜が伐採せらるるに至つたものである。(以下右檜造林地を現地山林と略称する。)現地山林の四囲の状態を見るに北辺は概ね幅員約十米の防火線になつている八代郡境を隔てて、八代郡川俣村馬石国有林と接し、一部が五木村字中村との字境を隔てて、同字一六〇〇番の国有林と接し、以上いずれも檜造林にして、現地山林と林相を同じくするものである。現地山林の東辺に隣接する開拓地は概ね灌木地帯であり、南方及び西南方にかけて隣接する山陽パルプ株式会社及び溝口隆義所有山林は松又は雑木を生育するに過ぎず、いずれも現地山林とは林相大いに異る。開拓地がその地形、南北に長き鈍角三角形をなし、その実測面積二十一町八反歩にして、生育木の見るべきものなく、山林としての価値乏しきに反し、現地山林は地形東北より西南に走る球磨、八代郡境を弦とし、東南方に弧を張る。稍篇平不規則の半月形状をなし、実測面積は開拓地の四倍を超える八十六町四反八畝二十九歩に及び、殆ど全域に亘り、樹令四十数年の檜生立し、その本数二十余万、石数約六万を算する価値ある広大な一大造林地である。ところが現地山林は字図の上では以前から、一、五七二番地内に在る如く見え、殊に又県が開拓地の分筆登記をなす際係員が実情を知らず、且つ農地買収については簡易な方法による登記手続が認められていたため、土地分筆申告添付の字図に一、五七二番を東西に分つ南北の分筆線を引くべきところを誤つて東西に走る分筆線を引いて南北に二分し、北部即ち八代郡境に接する部分を一、五七二番の二としたため、開拓該当の一、五七二番の二が字図上恰も現地山林に該る如く見えるようになつた。そこで右字図を根拠として現地山林は一、五七二番地内に含まれている土地であり、土肥亀吉所有当時、国より詐取せられたものであるとか、官の誤植地であるなどと主張する者が幾人か現われ、営林当局に対して民有地の確認申請をなし、或いは裁判所に提訴したこともあつたが、営林当局は右申請を拒否し、訴も取下になつていた。営林当局に於ては現地山林を上小鶴一、五七六番(営林局備付旧台帳反別四反歩)及び同所一、五七七番の二(右旧台帳反別十五町)であつて、実測面積八十六町四反八畝二十九歩であり、一、五七七番の二は元溝口家の所有であつたが明治十七年三月五日五木村戸長を経て官に上地した土地であり、一、五七二番と沿革的にも何等の関係がなく、一、五七六番は明治初年頃より官林として管理し来つた、所謂在来林であるとしているところである。右の如く字図は現地の地形を正確に表示していない。併し現地と字図の不一致はこの地に限らず五木村字上小鶴の現実の土地の状況、区画、地番は字図と相違していることが認められる。換言すれば字図が相当広範囲に亘つて混乱しているといえる。併し現地山林については、明治四十年一月営林当局の手により、当時施行の国有林野法に基き、隣接地所有者の立会のもとに、境界査定が行われている。右境界査定確定後、明治四十三年営林当局は檜の造林を行い、これを管理して来たものである。〔因みに現地山林は開拓地の北方八代郡界地点にある査定点一、五〇八号を起点として、西南端海野三角点(標高一、〇三〇米八〇糎八代郡境)、字上小鶴と字中村との字境と八代郡境との接合点、大通り越(八代郡境)の東方二、〇〇〇米、小径と渓流との交叉点に当る査定点五一号土塚のある地点、以上四点を順次結ぶ北辺の境界、前記査定点一、五〇八号より南に下り開拓地の北端に至る線、開拓地の西辺、山陽パルプ株式会社所有山林の北辺、及び溝口隆義所有山林の東北境界線(査定点三八号より前記査定点五一号まで)を連結する線に囲まれる地域である。〕

(四)  被告人石原が登記名義を取得するに至つた経緯

昭和二十六年に至り、岡部俊佐なる者現地山林を手に入れようと企て、字図等を根拠に現地山林が一、五七二番の一地内に含まれた民有地であるとして同地の所有者山陽木材に現地山林の床地が民有地なることの確認を国に対して請求することを自己に委任するよう申入れたところ、同会社ではそれが出来れば好都合であるという見地から岡部に右民有地確認申請の委任をした。岡部はこの委任に基き、熊本営林局に対し現地山林につき民有地確認の申請書を提出した。併し右申請は詮議なり難して却下された。岡部はなおも本渡市長や園田代議士等を動かして、政治的折衝を試みたが、何等進捗しなかつたので、山陽木材から右委任を解除された、そこで岡部は現地山林を獲得する手掛りを喪うことを虞れ、一、五七二番の一の土地を買受けて、その土地所有者たる資格で、地上の檜を獲得する運動を、国に対してしようと考え、会社に該土地買受方を申込んだところ、会社に於ても、これを松山相当代価にて譲渡すべき内諾を与えた。その後被告人石原は安成竜千代なるものの仲介で、岡部と協力して会社から一、五七二番の一の土地を譲り受けることにより現地山林が同地内に含まれる民有地であるとの主張をしようと考え、昭和三十一年六月頃には現地山林の調査にまで行き、又会社との間に、一、五七二番の一の買受の交渉を進めたが、一方被告人石原は県開拓課に対しては、一、五七二番の一と二との間の分筆線が南北の線であるべきところを誤つて東西の線になつている点を指摘し、これを南北の線に訂正するよう交渉していた。併し会社との間の一、五七二番の一の買受交渉がその価額(会社の言い値金千八百万円)の点で折合がつかず、同年八月頃該地は人吉木材市場株式会社社長上妻初太郎に売却せられ、次いで同年十月一日、その所有権移転登記手続も了つた(その後間もなく同月二十二日該地は上妻初太郎より山陽パルプ会社に所有権移転登記された。)自然被告人石原等の一、五七二番の一の買受交渉も中絶の已むなきに至つたのであるが、恰も字図によれば被告人石原自身指摘する如く、一、五七二番の一と二の分筆線が誤つたいるため、現地山林が右一、五七二番の二地内に含まれる如くに見え、又その所有名義も前山勇三のまま残つていたので、ここに被告人石原等はこれまでの方針を一変して、今度は前山勇三の遺産相続人に対して、一、五七二番の二中に開拓地の外現地山林を含むものとして、その所有名義の買受方の折衝を始め、被告人石原の妻等を介し、前山勇三の相続人前山のぶ、前山金次郎に対し、その所有名義の譲り受けにつき交渉に度重ねたが、前山等に於ては、自分達には権利はないから山陽木材に聞いてくれという返事であつたので、更めて、同会社三角工場支配人鍵原福松と折衝したところ、同人に於ては会社が一五七二番の山林を取得した経緯、一、五七二番の二は県より開拓団の用地として買収されたものであること、従つて会社名義に所有権を移転しなかつたこと、一、五七二番の一は前山勇三名義であつたのを会社名義に移したものであること等を説明し、結局一、五七二番の二の所有権移転登記に介入することはこれを拒否された。そこで被告人石原は申立人岡部の代理人として、昭和三十一年九月二十四日、前山勇三の相続人等を相手方として、熊本簡易裁判所に所有権移転登記手続請求の調停を申立てた。その申立は趣旨として相手方は申立人に対し、一五七二番の二山林二十一町八反歩から開拓地を差引いた残地につき相続の上、所有権移転登記手続をなせ、その理由として、一、五七二番の二は公簿面積は二十一町八反歩であるが、実測百八町八反七畝歩あり、内実測二十一町八反歩は、昭和二十三年農林省より買収されたが、現在未登記である。これを公簿面積に直せば、約四町三反七畝歩(21.8/108.78×21.8=4.369)となり、差引公簿面積十七町四反三畝(実測八十七町七畝)は営林署の檜の誤植地域で、この地域につき、申立人は旧所有者より譲り受けて、所有権を有するもので、該誤植地域につき、至急登記の必要があるので申立に及ぶというにある。その調停は成立しなかつたが、被告人石原等は前山勇三の相続人代表前山金次郎に対し「鍵原の方は自分で話をつける。決して迷惑をかけない。自分が県に行けば開拓地の方の問題は直ぐ話がつく。一、五七二番の二には開拓地も含まれているがその中には前山勇三名義のものがなお残つているので実測はそれより遙かに広い。それで実測面積の中から買収地を除いて、その残りが未だ勇三名義としてある訳である。この残余の一部の土地に営林局が誤植をしている。自分達は営林局が誤植しているところだけを払い下げて貰うのが目的である。転売等する腹はない。是非この残地を百五十万円で譲つて呉れ。」と申入れ同人の承諾を得、同人等との間に昭和三十一年十月二十日、右所謂残地を岡部に於て金百五十万円にて譲り受ける旨の契約を結ぶに至つた。右契約後被告人石原は被告人籾田に依頼して、昭和三十二年一月二十二日、一、五七二番の二を前山勇三の遺産相続人前山裕代外四名から自己名義に所有権移転登記をした。

(五)  被告人石原に於て、現地山林を甲斐寛志に売却し、解約となつた経緯及び現地山林払下運動の顛末

被告人石原は被告人籾田の仲介で昭和三十一年十二月十六日、右の所謂残地が現地山林床地に該り、営林局の誤植であり、残地の所有者に於て優先的に払下を受け得るものと誤信せる甲斐寛志に対し、これを金一千百万円にて売却し、教回に亘つて内金五百三十万円を受取つた。同日甲斐は竹智三郎、被告人籾田等と共に上京し、林野庁長官とも面接し、檜材の払下方を陳情したところ、現地営林局と折衝するようにいわれ、翌昭和三十二年一月十日頃同人等は熊本営林局を訪れ、右払下方を陳情したところ、営林局の態度は強硬にて現地山林は官の誤植ではなく明確に国有林であつて払下は出来ない旨聞くに及んで、甲斐は右同日頃被告人との間の一、五七二番の二の売買契約を檜材の払下困難を理由に解除し、内渡金五百三十万円については同年二月末迄にその返還を受ける契約を結んだ。(因みに甲斐への売却は岡部の全く関知しないことであつた。)前記の如く甲斐等の払下運動が失敗するや、被告人石原は友人梅田正雄の仲介により、在京の佐藤千秋に依頼して、現地山林の払下運動をしたが、所管熊本営林局長の反対で、その目的を達し難きを知り、寧ろ同局長を異動させ、且つ政治的圧力を加えて払下を実現せんと試みたがこれも失敗に了つた。この間被告人石原は、農林大臣に対し、二回に亘つて現地山林が民有地なることの確認方の上申書を提出したが、いずれもこれを取下げている。

犯罪事実

被告人石原は前叙の如く県が開拓地を一、五七二番の二として分筆しながら、農林省に対する所有権移転登記手続を怠つていたのに乗じ、昭和三十二年一月二十二日、単に登記簿上の名義人で、本来所有権を有しない前山勇三の相続人から該地番の登記名義を譲り受けたのであるが、

第一、被告人石原、同籾田は共謀の上、右一、五七二番の二に右開拓地の外現地山林を含む如く装うため、一、五七二番の二を更に開拓地と現地山林の按分比例にて公簿上の地積を定めて分筆しようと企て、

(一) 昭和三十二年二月四日頃、熊本市京町二丁目被告人籾田方事務所に於て、同被告人は同石原が登記所に提出する分筆申告書に添付すべき前記按分比例により虚偽の測量図作成方を被告人石原より依頼を受けて、これに応じ、実地測量もせず、且つ現地と相違し、右開拓地の地積が二十一町八反であるにも拘らず、四町六反五畝十八歩であるが如き虚偽の測量図を作成し、以て被告人籾田の業務に関し、虚偽の測量をなし、

(二) 同月五日被告人籾田に於て熊本法務局四浦出張所で同所登記官吏に対し、前記虚偽の測量図を添付した右一、五七二番の二の土地分筆申告書を提出し、同人をして右開拓地の地積が四町六反五畝十八歩であると誤信させて、即日土地台帳及び不動産登記簿に右開拓地を一、五七二番の三とし、その地積が四町六反五畝十八歩である旨記載させ、因つて公正証書原本に不実の記載をなさしめ、同日同出張所に備え付けさせて行使し、

第二、被告人石原は現地山林が自己の所有に属することは確信しないのに拘らず、これを石原所有なるが如くに誤信せる相手方より金員を騙取すべく、契約締結の交渉を企てたのであるが、その目的物は実測八十町余に亙る広大な山林であり、その殆ど全域に樹令四十数年、石数約六万に上る檜が造林してあるという多額の取引であるのみならず、現地山林の沿革、土地台帳又は登記簿上に於ける一、五七二番及びその分筆地の沿革、被告人が登記名義を取得するに至つた経緯、前名義人前山乃至会社支配人鍵原の述べたところ、従来からの民有の主張が尽く排斥されて来たこと、境界査定処分のあつたこと等複雑な事情のある土地であり、そしてかかる事情は相手方が取引を決意するにつき重大な関係を有する事実であるから、取引の信義上、相手方に告知すべき義務があるのに拘らずこれを告知することなく、

(一) 山林売買業安東武雄、木材業高崎武尚の仲介にて大分県玖珠郡九重町製材業佐藤三治との間に現地山林売買の交渉を始め、主として右安東を代理人として交渉させていたが、昭和三十二年二月七日熊本市桜井町司ホテル及び同市淡水旅館に於て右安東高崎等の説明により、前記一、五七二番の三を分筆した母番の一、五七二番の二(公簿面積十七町一反四畝十一歩)が現地山林に該当し、その地上の檜造林は営林署の誤植で、土地買受人に於て、これを安値に払下を受け得るものと誤信せる右佐藤に対し、現地山林中旧開拓道路以西の部分を金千八百万円にて売渡す契約をなし、その直後同人等に契約が出来たからいうが、林野庁から飛行機で係官が明日来熊するという電報が入つた、まず間違いないと虚言を弄し、次に同年三月九日右淡水旅館に於て、現地山林の旧開拓道路以東の部分を金千万円にて売渡す契約を締結し、坂除孫太を通じて林野庁は払い下げると電話もかかるし電報も来た。これは絶対に間違ないと思う旨虚構の事実を佐藤に伝えおき、同人より右売買代金名下に同旅館に於て同年二月七日金八百万円、同年三月二十二日金三百万円を受取つて騙取し、

(二) 次に猟師守田宝蔵、乳酸菌製造販売業友井健太等の斡旋により、高知県長岡郡本山村木材業、高橋義治との間に現地山林売買の交渉をするに至つたのであるが、同年八月六日、熊本市小沢町二番地被告人方に於て、前記守田等の説明によつて前記同様一、五七二番の三を分筆した母番の一、五七二番の二が現地山林に該当するものと誤信せる右高橋に対し、「この山は自分の所有で、何人も文句をいうことは出来ない。この山林の買受人が伐採搬出をなすとき、営林署はこれを妨害する根拠はない。又営林署が立木について所有権を主張しても、立木登記がしてない限り、その主張はすることが出来ない。二十年以上管理したのだからとて、時効取得を主張してもそれは成立しない。この山を分筆し、農地開拓地の地代金を農林省から前所有者の前山が受け取つていることを県庁でも確認している。所有権がないものがどうして地代金を受け取れるか、営林署の者は時々係が替るし、法的知識が乏しいので困るが、この問題は解決困難なものではなく、仕事を始むれば当局は手も足も出ない。結論として、この山林は私の極めて正当な所有であつて、その所有権行使は何人も阻むことが出来ない。不動産は所有権の移転登記をもつてのみ第三者に対抗権が生ずるのだ。営林局がどのような権利を主張しても、効果や価値がなく、所有権には些かの動揺もない」と申し向け、その旨信用した同人と同月十一日、同市船場町千歳旅館に於て、現地山林を代金、金三千八百万円、四回払の約にて売買する契約を締結し、同人より右売買代金内金名下に同所に於て、同日金四百万円、同年九月五日金三百五十万円及び高橋文子振出名義の約束手形十二通額面合計九百万円、高橋義治振出名義の約束手形額面金五十万円一通を受取つて騙取し、

たものである。

証拠<省略>

法令の適用

判示事実中、被告人籾田の判示第一の(一)の所為は土地家屋調査士法第二十二条、第十二条、刑法第六十条に、同(二)の所為は同法第百五十七条第一項、第百五十八条第一項、第六十条に、被告人石原の判示第一の(一)の所為は土地家屋調査士法第二十二条、第十二条、刑法第六十条、第六十五条第一項に、同(二)の所為は同法第百五十七条第一項、第百五十八条第一項、第六十条に、判示第二の各所為はいずれも同法第二百四十六条第一項に各該当するのであるが、被告人籾田の判示第一の(一)の罪の刑につき罰金刑を、被告人両名の判示第一の(一)の罪の刑につき各懲役刑を夫々選択し、被告人両名の判示第一の(二)の公正証書原本不実記載、同行使の間には互に手段結果の関係があるから、各同法第五十四条第一項後段、第十条に則り、重い公正証書原本不実記載、同行使罪の刑に従い、被告人両名の以上の所為は夫々刑法第四十五条前段の併合罪であるから、被告人籾田に対しては、同法第四十八条第一項前段を、同石原に対しては同法第四十七条第十条を各適用して、夫々併合罪の刑の加重をした刑期及び罰金の範囲内に於て、量刑をなすべきところ、被告人石原は多年在野法曹としての学識経験者であり、その職責上基本的人権の擁護に任ずると共に、社会正義の実現をなすべき地位にあり、特にその専門的意見は世人の信用するところなるに拘らず、その有する法律実務知識を悪用し、本件を敢行するに至つたもので、被害は数千万円に及び、稀に見る多額であり、法曹の信用を失墜した点に於て、犯情洵に軽かざるものがあるので、被告人両名を主文第一項表示の刑に各処し、被告人籾田に対しては、犯情懲役刑の執行を猶予するを相当と認め、同法第二十五条第一項を適用して、主文第二項掲記の如く定め、罰金不完納の場合に於ける労役場留置につき、同法第十八条を適用して、主文第三項記載の如く定め、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文に則り、全部被告人等に負担させることとする。

被告人の主張に対する判断

第一、被告人石原は現地山林は起訴状に於て一、五七六番及び一、五七七番の二であつて、前者は在来の国有、後者は明治十七年の上地林である旨主張しあるも、自分は民有であると確信するものである。その根拠とするところは次の如くである。(一)国有林に炭焼がまが存在し、境界査定以前迄民有地であることを物語つているし、(二)土肥外古老の語るところによれば現地山林は植林当時、係官が土肥亀吉に交換地をやると言つて取り上げたことが判る。(三)現地山林は字図上一、五七二番に当る。字図はその作成当時、村の有志集り、協議の上作成されたもので、もし一、五七六番及び一、五七七番の二が国有地であれば、表示せざる筈なし。(四)現地山林についての境界査定は非隣接地を査定していること、査定通告がないこと、査定図と事実と相違していること等から無効である。(五)現地山林は競売公売により原始取得したものである。(六)現地に国有林としての明認方法が講ぜられていなかつたこと。(七)現地山林については未だ訴訟上の確定判決等がないこと。(八)県では一、五七二番の二に余剰地のあることを認めて、被告人に於て分筆手続をなすことを諒承していたこと等が右根拠である旨。主張する。

右の点について審按するに

(一) 被告人石原は一、五七二番の二の登記名義をうるにつき、前後矛盾の行動に出ている。冒頭事実(四)に記載の如く、被告人は岡部等と協力して、現地山林は一、五七二番の一に包含せられる民有地であるとの主張をなさんがため、昭和三十一年六月頃には岡部等の案内で、現地山林の調査に赴くと共に、山陽木材に一五七二番の一の譲受方の交渉をなし、一方県の開拓課に対しても分筆線が東西になつている誤謬を指摘して、これを南北の線に訂正するよう交渉して置きながら、同会社が同地を他に売却したため、会社との右交渉が打ち切りの己むなきに至るや、今度は前山勇三の相続人等に対し、以前は一、五七二番(目測約百町歩)の一部ではあつたが、東北部を占めるほんの一部に過ぎなかつた別個の土地である一、五七二番の二(実測二十一町八反歩)の中に現地山林(実測八十余町歩)が含まれるものとして、その登記名義買受の交渉をしている。このように同一の土地が前後して二つの地番に入る道理はない。若し、県の方で右被告人指摘の如く一、五七二番の分筆線を訂正していたと仮定するならば、本件犯罪事実は大方未然に防止出来たであろう。

被告人石原が右のような前後矛盾の行動に出たことは同被告人が一、五七二番の三を分筆した一五七二番の二が現地山林に該当すると確信していたことを疑わしめることの一つである。

(二)  又一、五七二番の二は開拓地丈で余剰地のないものである。一、五七二番の二を開拓地として分筆したのは国にその所有権を移す前提であり、これは自作農創設特別措置登記令に基いて、県知事が農林省のため代位してなしたものであつて、県知事には買収地以外の土地を分筆する権限はなく、分筆地の一、五七二番の二は開拓地のみであり、その位置形状、林相等も冒頭事実(三)に述べたように、夫々の特徴を持ち、実測面積も二十一町八反歩と限定された区域であつて、本来開拓地のみのため分筆されたものに過ぎず、理論上も実際上も所謂余剰地とか残地とかいうものを含まないものである。一、五七二番の二は県吏員の手落により、登記簿上前山名義のまま残つていた丈のことである。前山として一、五七二番の二に関する限り、何等の権利も持つていないものと謂わなければならない。従つてかような登記名義を譲り受けても、そのことからは何等の権利も生れて来ないことは当然である。

被告人石原は冒頭事実(四)に於て述べた如く前山等に対する調停申立に於て、一、五七二番の二の山林二十一町八反歩から開拓地(実測面積二十一町八反歩)を差引いたもの、即ち残地を要求し、或は一、五七二番の二の公簿面積は二十一町八反歩だが実測面積は百八町八反余歩ある等、相手方に申し向けているが、開拓地は元来二十一町八反歩(実測)しかないものであるから、これから開拓地を差引けば後には何も残らない筋合のものである。従つて冒頭(四)に述べたような経緯により登記名義を取得しても果して現地山林が自己所有なりとの確信を有するに至るや否やを疑わしめるところである。これが疑の第二である。

(三)  被告人石原が現地山林中元溝口家上地の部分をも一括売却したことは、同被告人が現地山林につき所有権を有することの確信を有するにつきての第三の疑問である。勿論明治の初期とか、中葉頃のことではあり、山奥のこととて、現地山林と一、五七二番の境界については不分明な箇所が多かつたであろうことは想像に難くないが、熊本営林局長作成の回答書、裁判所の検証調書、証人溝口隆義の証人尋問調書等に徴し明かな如く、現地山林中西部の溝口隆義所有山林に接する部分(八代郡境上の三角点より査定点三十八号迄を結ぶ線以西の部分)は元溝口家の上地するところにかかり、元土肥家の所有地であつたという一、五七二番とは何等の関係ない土地であるに拘らず被告人石原に於て、この部分をも自己所有なりと確信するということは有り得ないことと思料する。

(四)  現地山林について明治四十一年境界査定が行われているのにこれが無効であるという確信の根拠が被告人石原の主張する点丈で十分か否かということである。一般世人の多くは台帳や地図乃至字図の表示するところに過大の信用を置き、その記載に従つて取引すれば、間違ないものと考える実情にあるが、元来土地台帳や地図は権利の客体たる土地の現状、区劃、地番等を明かにする手段乃至方法の一つとして設けられたものに過ぎないのであるから、台帳や地図の表示するところによつて土地の範囲等が定まるものではない。字図と現地とは一致しない場合がかなりある。殊に本件五木村字上小鶴に在つては、字図の混乱は相当広範囲に亙つていることが窺われるのであるが、現地山林については境界査定が行われていて、その行政処分は既に確定しているのみでなく、従前からの現地山林に関する民有の主張、民有地確認申請乃至争訟の経過は右行政処分を左右するに至つていない。その査定図を見れば、被告人主張の如く、周囲の所有者名、その隣接地域の範囲等について正確とは認められない記載が数ヶ所あり、又査定通知領収証中隣接所有者土肥の判が後に押し直されているため、通知受領の日が疑問であること等、行政処分として、或程度瑕疵あるものであることは認められるが、実質的絶対に無効の場合であり、確認判決を俟つまでもなく、無効のものであるとは考えられない。これを無効として現地山林を自己所有なりと確信し得るや否やを疑わざるを得ない。これが疑の第四である。

以上の諸点に加うるに、被告人石原が政治的に解決せんとした檜の払下運動も冒頭事実(五)に述べたような経緯を辿り、更に佐藤三治に対する現地山林売買も事前に解約となつていること、並びに被告人が法律実務上多年の経験者であることを彼此勘考するとき、同被告人に於て現地山林が民有なることを確信するは兎も角これを自己の所有なりとの確信を有するに至つたものとは到底考えられないところである。

第二、次に同被告人の主任弁護人は弁護士であるからといつて、何でも知つているとは限らない。被告人石原は比例配分的分筆が違法であることを知らなかつたものであつて、土地家屋調査士法違反罪及び公正証書原本不実記載罪、同行使罪については共謀の犯意を欠く旨主張している。

依つてこの点について考察するに

前記第一の被告人石原が現地山林は民有地であるとの主張の根拠が仮に全部肯定出来るとしても、そのことからは開拓地分筆前の一、五七二番全部の中に現地山林中元溝口家上地分なる西部を除いた地域が或は包含せられる場合も想像出来ないでもないが、かかる場合は右除外による残り部分の現地山林と、それ以外の一、五七二番との比例配分的分筆も観念的には考えられるところであり、事情により共謀の犯意を認め難い場合もあろうが、単なる開拓地としての分筆地である一、五七二番の二の中に、元溝口上地地域をも包含する現地山林全部を何故に包含するものと考え得られるやの理由に至つては吾人の容易に考え得られないところであり、従つて開拓地と現地山林との比例配分的分筆ということも到底理解し得ないところであつて土地家屋調査士法違反罪及び公正証書原本不実記載罪、同行使罪について共謀の犯意なしとは謂われない。

依つてこの点に関する右弁護人の主張も採用出来ない。

仍て主文の通り判決する。

(裁判官 渡辺利通 松下蔵作 藤光巧)

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